ほんとはかたづけたい

片付けが苦手な20代女。片付けられるようになる、のか?

9月の蚊

掌を蚊にかまれた。

ただでさえ、9月の蚊っていうやつは痒いのに、

掻いても掻いた気にならない掌。

キンカン塗れば、食事をすると鼻先に近づいて不快になる掌。

 

掌である。掌。

掌中にいたのに、まったく掌握できず、

まんまと血を吸われる間抜けさ。

殺そうと思えばすぐに握り潰せたっていうのに、

私はなにをしてたんだろう。

 

 

ムヒパッチだって、すぐはがれちゃうんだもんなあ。

片付けられない祖母、そして私

今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」

 

私の祖母も、片付けが苦手である。

はやくに祖父が亡くなった後から、ゆるやかに彼女の家は、

ものものが溜め込まれるようになっていった。

まだまだ頭はしっかりしていて、認知症とも思えないうちから、少しずつ、少しずつ。

 

祖父が死に、祖母がひとりで暮らすようになったのは、

思い返せば私が小学1、2年生のころ。

私が小学校高学年になるころには、

年賀状に

「私も部屋を片付けるのを一年の目標にするからがんばろう」

「今年はおばあちゃんちに遊びにいくから、お片付けしていてね」

なんて、片付けの苦手な者同士の交流を交わしていたのである。

 

名誉のために言っておくと、当時の祖母の家は、

物がおおいけれど乱雑に散らばるということはなく、

また水回りも手入れされていたし、床の上だって、

きちんと掃かれて綺麗だったのだ。清潔であった。

ただ、元来しっかりしていた祖母は、お正月やお盆が近づくと、

片付いていないから、片付いていないから、と困ったように言い、

祖母の家に集まるのではなく、どこか別のところで、

たとえば外食をするなどして会えないか、と言っていたのである。

なので、片付いていない、の質だってまったく違うけれども私は、

祖母と私は同じ、片付けらないという悩みをもった人だと、連帯感のようなものを感じ、

祖母に親しみを持っていた。

 

今、ようやく90になった祖母は、

すっかり認知症がすすみ、その家は本当に片付いていない家になった。

週に一度、私の家に泊まりに来る祖母はそのたび

「家片付けないとね、遊びに来たいって言ってたもんね」

と繰り返す。

今になって、片付けようね、なんて言われることが

片付けの苦手な身からすれば、随分なプレッシャーだということがわかるが、

きっと、祖母は素直に、孫の親しみを喜んでくれていたのだろう。

掃除機

 前回の記事を書いた日に、おおがかりに掃除をした。

 今日は、ようやくその日からはじめて掃除機をかけた。

 小さな埃や髪の毛が散っていた床が見違えて綺麗になり気持ちが良い。

 今日のうちには、床においた鞄たちを、鞄掛けにかけることを目標とする。

ほんとはかたづけたい

 かたづけるのが苦手だ。

 生まれてこのかた、ずっと苦手だった。

 昨日、部屋で眠ろうと思ったら、かさかさ音がして、明かりをつけてみれば、ごきぶりが部屋にたまった埃にからまってひっくり返って死にかけていた。

 ごきぶりって、埃なんかエサにするんじゃないかと思っていたけど、ネットで調べてみれば、油っぽいごきぶりの体には、多すぎる埃はかえってよくない環境らしい。

 ごきぶりさえ死ぬ部屋。

 

 26歳、学生。

 なにも汚いのが好きなわけじゃない。本当に、かたづけが、ただただ苦手なのだ。

 現在実家暮らしだが、一人暮らしをしていたときも、生ゴミだけはしっかり処理をしていたので、ごきぶりなんかはアパートに出たことはなかった。

 だけども、たまる本、行き場のない書類、気づけばあいた椅子に積まれている服。容赦無く物ものの隙間を埋めていく埃。

 悲しい。きたない部屋は、ほんとうに悲しい。なにより惨めだ。

 

 できることなら、きれいな部屋にすみたい。

 しかし苦手なのだ。

 昔、読書がきらいで、文章を書くのが苦手だった弟が、宿題の読書感想文を書こうとしてもかけなくて、ほぼ一日机の前で、白紙の原稿用紙を見つめていた。

 私は、本は好きだし、読書感想文を書くのは苦ではなかったけれど、あの弟の気持ちが、かたづけようとするときには身にしみてよくわかる。

 どうすればいいかわかっているはずなのに、やっぱりわからない。体がうごかない。苦痛なのだ。

 

 26年も生きてくると、かたづけられないということが本当に大きなコンプレックスになってくる。

 かたづけられないということは、不潔だし、だらしない。

 潔癖症の芸能人が、汚部屋に住む芸能人の生活っぷりを

「ヤダ〜!!」「汚〜い!!」

という番組など見た日には、そりゃ、一緒に汚いなあと画面の前で思っているけれど、どこかで自分の胸もちくりと痛む。

 

 散らかった部屋を見ていると、人を呼べないと思う。仮にいつか一緒に生活をしたい人ができたとして、そのとき私はきっと、かたづけが苦手だという自分の性質のために、きっと一緒に暮らすことをためらってしまう。そんな気がする。

 かたづけられない、ということは、だれかと生きることを拒む。

 かたづけられない、ということは、孤独なことではないか、と思う。

 

 自分がADHDとか、そういった性質を持っている人間なのかどうかは、専門機関で訊いたことがないからわからない。

 ただ、とにかくかたづけの苦手な一人間として、つれづれ、かたづけに対峙する日々をつづっていこうか、と思う。

 そのうち、なにか習慣が変わって、かたづけられる人間になれれば、良いなあ。

 

 かたづけたいのである。本当は。