ほんとはかたづけたい
かたづけるのが苦手だ。
生まれてこのかた、ずっと苦手だった。
昨日、部屋で眠ろうと思ったら、かさかさ音がして、明かりをつけてみれば、ごきぶりが部屋にたまった埃にからまってひっくり返って死にかけていた。
ごきぶりって、埃なんかエサにするんじゃないかと思っていたけど、ネットで調べてみれば、油っぽいごきぶりの体には、多すぎる埃はかえってよくない環境らしい。
ごきぶりさえ死ぬ部屋。
26歳、学生。
なにも汚いのが好きなわけじゃない。本当に、かたづけが、ただただ苦手なのだ。
現在実家暮らしだが、一人暮らしをしていたときも、生ゴミだけはしっかり処理をしていたので、ごきぶりなんかはアパートに出たことはなかった。
だけども、たまる本、行き場のない書類、気づけばあいた椅子に積まれている服。容赦無く物ものの隙間を埋めていく埃。
悲しい。きたない部屋は、ほんとうに悲しい。なにより惨めだ。
できることなら、きれいな部屋にすみたい。
しかし苦手なのだ。
昔、読書がきらいで、文章を書くのが苦手だった弟が、宿題の読書感想文を書こうとしてもかけなくて、ほぼ一日机の前で、白紙の原稿用紙を見つめていた。
私は、本は好きだし、読書感想文を書くのは苦ではなかったけれど、あの弟の気持ちが、かたづけようとするときには身にしみてよくわかる。
どうすればいいかわかっているはずなのに、やっぱりわからない。体がうごかない。苦痛なのだ。
26年も生きてくると、かたづけられないということが本当に大きなコンプレックスになってくる。
かたづけられないということは、不潔だし、だらしない。
潔癖症の芸能人が、汚部屋に住む芸能人の生活っぷりを
「ヤダ〜!!」「汚〜い!!」
という番組など見た日には、そりゃ、一緒に汚いなあと画面の前で思っているけれど、どこかで自分の胸もちくりと痛む。
散らかった部屋を見ていると、人を呼べないと思う。仮にいつか一緒に生活をしたい人ができたとして、そのとき私はきっと、かたづけが苦手だという自分の性質のために、きっと一緒に暮らすことをためらってしまう。そんな気がする。
かたづけられない、ということは、だれかと生きることを拒む。
かたづけられない、ということは、孤独なことではないか、と思う。
自分がADHDとか、そういった性質を持っている人間なのかどうかは、専門機関で訊いたことがないからわからない。
ただ、とにかくかたづけの苦手な一人間として、つれづれ、かたづけに対峙する日々をつづっていこうか、と思う。
そのうち、なにか習慣が変わって、かたづけられる人間になれれば、良いなあ。
かたづけたいのである。本当は。